「ルーペ論争」考

カトウさんの日記で知ったのですが、
撮影監督・辻智彦さんのブログに再録された
「ルーペ論争」(1940年)が面白いです!
http://ameblo.jp/cinematic-neo/

その1:「文化映画研究」1940年2月号での亀井文夫秋元憲田中喜次上野耕三石本統吉各氏の座談会と、3月号の三木茂氏の反論
http://ameblo.jp/cinematic-neo/entry-10380296904.html

座談会のメンバーがもう、戦前戦後の文化映画のオールスターですね。
冒頭で「監督が撮影者について行く傾向」とあるように
当時の記録映画はようやく「監督も撮影現場に行く」ようになった時代、
というのが感慨深いですね。
(亀井さんも『上海』に、秋元さんも『南京』には行かず)
記録映画の「監督」という存在自体が生まれて間もない頃。
なにせキャメラが上の写真みたいな大きさの時代ですし。

その2:「文化映画研究」1940年4月号の秋元憲氏の反論
http://ameblo.jp/cinematic-neo/entry-10381799316.html

「文化映画部はスタジオの姥捨山」とか、
「待合の二階を事務所」にしている「インチキスタジオ」とかの
毒舌が面白いんですけど、これは今も変わらない面が(笑)
秋元憲さんは松竹蒲田出身。
成瀬巳喜男島津保次郎、野村芳亭作品の助監督を経て
東宝文化映画部に移られてからは、
軍艦旗に栄光あれ』『南京』『富士の地質』『セレベス』など
戦前はかなりの大作・話題作を手掛けていらっしゃいますが、
戦後も80年代初頭まで、主にPR映画を作り続けていたのですね。
(わかる範囲で→1946:二十年後の東京、1951:セメント、1952:劇をわれらに、1953:小人の電話、1954:平和記念都市 ひろしま、1955:ナイロンの花ひらく、1956:真珠誕生、1957:下水の科学、1959:Go-Stop Tokyo、1960:横山大観、1961:日本製鋼所、1962:若戸大橋、1963:野村の投資信託、1965:現代日本の新しい翼、1968:シリコーンの生活、1969:歯車に生きる、1971:輸血、1975:国鉄とコンピュータ 1979:広島県福祉の地域づくり、1981:伸びゆく浜田市、1982:美しい広島をめざして)
"論敵"だった三木茂さんの三木映画社でもよく仕事されています。
回顧録かインタビュー、残っていないかなあ。

その3:「文化映画研究」1940年4月号の亀井文夫氏の反論
http://ameblo.jp/cinematic-neo/entry-10382369493.html

「文化映画的方法は、いまやっと、
 誕生期または幼年期にはいったばかりなのです」

その4:1940年4月13日の、三木茂氏の再反論
http://ameblo.jp/cinematic-neo/entry-10382879030.html

しかしまあ、皆さん若いです。
そして今でも通用する指摘がいっぱい。
次回以降の辻さんの論考も楽しみです!

参考サイト:
高知県立美術館 気骨のカメラマン 三木茂特集
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~museum/previous/miki/miki.top.htm
電通映画社のなりたち〜「煙突屋ぺロー」と田中喜次氏
http://www.on.rim.or.jp/~kakio24/Eigasya/history1A.html
記録映画監督 上野耕三
http://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E5%90%89