抜き書き、監督本×3。

shimizu43102009-09-16

図書館に返却する前に…。
東宝関連の話題を。


小栗康平『時間をほどく』

東宝は『ゴジラ』をはじめとする特撮の部門を分社化して、東宝映像という会社をつくっていた。芝居のほうをまとめる助監督がいないということで私が呼ばれた。
作品は三十分の新しいテレビ・シリーズで、子供向けの変身ものだった。よりによって、ではあったけれど、いやだ、いやだといっているうちに百円の金もなくなって、やぶれかぶれでついた仕事だった。本多猪四郎さん、福田純さん、古沢憲吾さんたち、往年の東宝ベテラン監督たちがじつにまじめに撮っていたが、私から見れば失業対策事業にしか見えなかった。あまりおもしろくないので、私は途中から撮影現場には出ずに、もっぱら仕上げのほうで監督代行のようなことをやっていた。それでも本多さんは、私のやったダビングを温厚な笑顔で見ていてくれた。シリーズの最後の方の二本を監督したが、その初日、一日に百カット近く撮ったのをおぼえている。これがDVDになっていま発売されているからおそろしい。
(p.99「撮影所映画の終わり」より)

時間をほどく

時間をほどく

流星人間ゾーン DVD-BOX

流星人間ゾーン DVD-BOX

http://d.hatena.ne.jp/shimizu4310/20051118


神山征二郎『生まれたら戦争だった。』

これはだいぶたってから聞いた話ですけど、当時、東宝の重役だった藤本真澄プロデューサーが、東宝の全監督、全プロデューサーに「この映画を見ろ。映画っていうのは、こういうふうに作るんだ」と言ったそうです。私たちの先輩になる東宝の監督が、「そう言って見せられた」と言っていました。
ずっとお話ししてきたように、予算がない中で撮った作品で、欠点も多々あるんですけど、藤本さんは作品全体を見てそう言ってくれたんでしょうね。プロデューサーの能登さん*1東宝の出身だから藤本さんに紹介してくれたのかもしれませんし、今井さん*2が藤本さんに言ってくれたらしいということも伝わっています、「いい新人が出たよ」と。今井監督の『青い山脈』などの輝かしい初期作品のプロデューサーでもあった藤本さんが、実現しませんでしたけど、「この新人監督を育成してみたい」というようなことまで言ってくれたそうです。
(p.78〜79「第1作『鯉のいる村』」より)

生まれたら戦争だった―映画監督神山征二郎・自伝

生まれたら戦争だった―映画監督神山征二郎・自伝

鯉のいる村・ムッちゃん―松田昭三シナリオ集 (1983年)

鯉のいる村・ムッちゃん―松田昭三シナリオ集 (1983年)


恩地日出夫『「砧」撮影所とぼくの青春』

ぼくはこの年、『めぐりあい』につづいてもう一本『º˜aŒ³˜\@‚s‚n‚j‚x‚n‚P‚X‚U‚w”N』を撮った。
この映画は、藤本さんの思いつきからはじまった。「ATGが一千万なら、東宝の中で二千万でやってみろ!」というわけである。
この頃、東宝撮影所では低予算で映画をつくることが非常にむずかしくなっていたことは確かで、「大作主義」のかけ声のもとで十数年やって来たつけが人件費の高騰に象徴される一種の動脈硬化状態となって現れていた。だからこそ「撮影所合理化」などということが会社トップの間で議論されていたわけで、これに終始反対の立場をとりつづけた製作責任者の藤本真澄さんとしては、東宝の中でも低予算で映画がつくれることを実証して、撮影所合理化の動きに歯止めをかけようとしたのかもしれない。
ところが、親の心子知らず、当時のぼくは、「やりたいことがやれそうだ……」と大喜びで脚本づくりにとりかかった。
脚本家は当時、ラジオのディレクターから脚本家になったばかりでまだ無名だった倉本聰である。都会の片隅に生きる若い男女のものがたり――ということだけ決めてスタートした。
いろいろ話しているうちに、ベトナム戦争の取材から帰ったばかりの新聞記者と若い二人を組み合わせることになったのだが、若者たちの台辞は脚本には書かないことにした。
新人脚本家は意欲満々だったが、監督は青春ものがつづいて普通のやりかたにやや飽きていたのかもしれない。
脚本の第一頁には、こんなことが書いてある。
「乙三、ユリも会話は、撮影現場での偶発性を期待して、趣旨のみを書いてあります」
(中略)
乙三は、唐十郎状況劇場で大道具係で働いていた井出情児*3。ユリはずぶの素人で吉田未来。二人とも十九歳だった。
二人は最後までがんばったし、倉本聰も、ずっと現場に立ちあって、その場で台辞を書いてくれたが、二人の現実とドラマの設定とのギャップは埋めることができなかった。
音楽も、五本つづいた武満徹ではなく、ジャズの八木正生と組み、ヘレン・メリルに唄ってもらったりといろいろ試みた作品だったが、結果は壮烈な失敗作となった。
いま振り返って考えてみると、失敗の原因は、ドキュメンタリーの中に「ヤラセ」でフィクションをはさみ込んでも、水と油で絶対なじまないように、フィクションの中に安易に「現実」をはさみ込んでも無理だったということだろう。
――こんな風に簡単に書けるのは、あの時から三十年、ぼくは、ドラマとドキュメンタリー、フィクションとノンフィクションのはざまで悩みつづけ、沢山の映画やテレビの映像をつくりつづけたからだが、その出発点は、この『昭和元禄』だったのだと思う。
(p.180〜184「ドラマとドキュメンタリーのはざま」より)


そんな恩地さんが後年感動したとおっしゃる二本の映画。

秘密と嘘 [DVD]

秘密と嘘 [DVD]

2/デュオ [DVD]

2/デュオ [DVD]

*1:能登節雄:1908-2001。プロキノ→PCL・東宝近代映画協会

*2:今井正:1912-1991。

*3:プロフィール:http://jyoji.ubusuna.com/profile/profile.html